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そうだ!京都へ行こう! 〜オフレポスレ〜

1 :名も無き被検体774号+@\(^o^)/:2016/10/15(土) 12:17:57.78 ID:k6Acau3c.net
9月末から10月頭にかけて「京都〜高野山 ポケモンgoの旅」をしたょ
某コテさんとのオフもあってとても良い時間を過ごせたので
旅とオフレポスレとしてスレ立てしてみたょ♪

※ オフ開催告知等はこのスレではしません ※

関連らしきパー速スレ
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53 :◆S54RrOzhG77c @\(^o^)/:2016/10/15(土) 15:46:10.56 ID:pKVLQwPE.net
ー竜馬がゆく(三)寺田屋騒動から抜粋ー


この時期、文久二年の初夏。
時代はそろそろ沸騰しはじめていたが、まだ煮えつまるまではほど遠い。
世の政情は、まだまだ「倒幕」というようなはげしいことばの似つかわしい時勢ではなかった。

薩摩藩主の実父で事実上の藩主だった島津久光(のちの公爵)などは、明治になってからでさえ、
ーー倒幕?とんでもない。おれはそんなつもりはなかった。あれは西郷らが勝手にやったことだ。
といったりした。

幕末の風雲は、この稿のこのあたりではまだ序曲というべき時期である。

54 :◆S54RrOzhG77c @\(^o^)/:2016/10/15(土) 15:46:49.30 ID:pKVLQwPE.net
ーーさて、寺田屋騒動。
その「暴動計画」に加わったのは右のような事情で、薩摩藩でもほんの二、三十人であった。
京都錦小路の薩摩藩邸にある島津久光な、この風聞を聞いて激怒した。
薩摩藩は本来、長州藩とはちがい、藩公を中心とした徹底的な組織第一主義の国家である。かれらを、
「不逞」
とみた。不幸はここからおこった。

伏見の船宿寺田屋における惨劇の急報が、三里はなれた京の河原町長州藩邸にもたらされたのは、そのあくる未明である。
ばたばたと藩邸の廊下を駈け叫ぶ者があった。
「諸君、起きろ。大事は去った。伏見における薩摩藩の勤王有志は全滅したぞ」
(全滅?)
竜馬は、はねおきた。
暗い藩邸の庭にとびだすと、ちょうど久坂玄瑞が駈けよってきて、なにかを叫びながら、闇へ駈け去った。
(馬鹿)
竜馬は、暁闇の天を見上げた。
星が出ている。
(まだ、早すぎたのだ、時期が。ーー)
無駄に命をすてた連中への、言いようのない怒りである。
夜明けとともに詳報が入ってきた。薩摩藩士団が、薩摩藩士団を斬ったらしい。

(よし、見て来てやる)
竜馬は藩邸を出、伏見へ出かけた。さいわい船宿寺田屋のおかみお登勢とは、竜馬は旧知の仲である。
見舞、ということもあった。
勇士の霊を弔うという気持ちもある。
寺田屋騒動の真相については、竜馬はこのあとでさらにくわしく知るのだが、凄惨苛烈なものであった。
京都錦小路の薩摩藩邸内の「御殿」にいる島津久光は、八人の藩士をよんだ。
「寺田屋に屯集して暴発を企てているわが家(薩摩)の者に告げい。よいか。一味の浪人どもはかまわでもよし。わが藩士にのみ告げよ。即刻、京の藩邸へきて、予の話をきけ、と申し伝えよ。予がじきじき慰留する」
「もしきかざれば、いかがとりはからいまする」
堀次郎という藩の公用人で、久光の知恵袋が、殿様に念を押した。この男は、大の勤王ぎらいである。
「臨機にーー」
ただそれだけ、久光はいった。上意討という意味である。つまり、斬る。
久光は、さらに言葉を添えた。
「使者には、かれらと同志同腹の士を選ぶように」
でなくては、寺田屋組は、慰留に乗らないであろうという久光の配慮である。
しかし、寺田屋組の暴発の肚がかたいということもわかっている。慰留とは名ばかりで、おそらく同藩士、しかも同志が相討つことになろうとは、容易に想像できた。
討手に選ばれたのは八人。あとで一人加わって九人である。奈良原喜八郎(のち繁、男爵)を筆頭にいずれも薩摩の剣術示現(自源)流の達人ぞろいであった。しかも、寺田屋組と同じ思想の徒である。
かれら薩摩人は、長州人や土佐人とはちがい、思想よりも君命を重しとした。
かれらは日没後、伏見へ急行した。
このころ、伏見寺田屋では、志士のめんめんが武器を整え、武装をかため、すでに出発の準備をととのえつつあった。
この寺田屋屯集組にまだ年少の大山弥助(のちの巌、日露戦争の満州派遣軍総司令官、元帥・公爵)、西郷信吾(隆盛の弟、のちの従道、元帥・侯爵)がいた。

55 :◆S54RrOzhG77c @\(^o^)/:2016/10/15(土) 15:48:38.90 ID:pKVLQwPE.net
京街道。
竹田街道。
京から伏見へのこの二すじの街道を、奈良原喜八郎ら九人の薩摩藩士が「討手」として、ふた手にわかれて、走っていた。
かれらが、寺田屋についたのは、午後十時過ぎであった。
軒行灯の灯はまだ消されず、
ーー旅籠寺田屋
とほのかに、文字を闇に浮きだしている。
寺田屋は、二階だてである。
京風に、壁に紅殻などがぬられているが、二階は手すりがあるだけで、京の旅館によくある格子は用いられていない。
暴発組の薩摩藩士や、浪士団は、すでに武装をととのえ、全員、二階で出発の支度をしていた。
討手の奈良原喜八郎は、人数の半数を戸外に残し、死を決して、土間に走り込んだ。

「宿の者、たれぞおるか」
へっ、と手代が出てきた。
「どなたさまでござりまする」
「二階に薩摩の有馬新七がおろう。同藩の奈良原が、命がけで談合にきた、と言ってくれんか」
「へへっ」
手代が階段をかけあがった。
階上。ーー
「なにィ?奈良原どんが来たと?」
みな気が立っている。
「慰留は無用。追いかえせ」
が、有馬新七は首領株だ。それに奈良原の親友でもある。
有馬は階下におりた。
奈良原は、有馬の顔をみて板敷の上で左手をつき、泣訴するようにいった。できれば斬りたくない。
「有馬ァ、頼む。頼ンもす。君命じゃ。暴発はひとまずとどまってくれ」
「キハチ(奈良原)どん」
と、有馬はいった。
「事は、ここまで来ておる。俺(おい)は武士じゃ。たとえ君命であろうと、とどまれもはんど」
「たとえ、上意討に遭うとも、有馬、苦しゅうはないか」
「ない」
瞬間、双方に殺気がみなぎった。

56 :◆S54RrOzhG77c @\(^o^)/:2016/10/15(土) 15:49:55.04 ID:pKVLQwPE.net
たしかに殺気である。が、双方、憎しみはなかった。双方、家中では勤王派の同志であり、友人である。
が、薩摩隼人の奇妙さは、いかなる場合でも、自分の男としての名誉をまもる、ということにあった。七百年、日本列島の西南端で心胆を練りつづけてきた、この国の異風である。殺気は、カラリと乾燥している。
まず、戦いは、討手の奈良原の横にいる道島五郎兵衛が、右膝をたてたことからはじまった。
「有馬、おはんら、どうしても君命を聴かんか」
「聴かん」
いったのは、暴発組の田中謙介である。
「上意。ーー」
道島五郎兵衛は、抜き打ちに大刀を一閃するや、田中謙介の眉間を斬った。
がっ
と鳴ったのは田中の骨である。骨が、硬い。
田中謙介の両目から眼球が飛び出し、あおむけざまに倒れて、気絶した。謙介は死なず、あとで蘇生したが、翌日伏見の薩摩屋敷に移され、藩命により、切腹した。三十五歳。性淡泊、学問もあり、生前、朋輩に愛された。
戦闘が、はじまった。
が、暴発組の主力は二階にいる。かれらは、階下でまさか乱闘が行われているとは知らなかった。幸か不幸か、階下にいるのは、かれらの代表四人だけである。しかもこの四人は、階上の味方に助勢を頼もうとはしなかった。当時の薩摩武士らしい豪気さ、というべきだろう。
さらに、豪気なのは、暴発組代表のひとり柴山愛次郎であった。愛次郎は、幼少のころから勇気をもって知られていた。
柴山愛次郎、眼を閉じている。
男として「暴発」は捨てられないが、君命には従わねばならぬ。ここは一番、斬られるしかあるまい、と覚悟した。
「愛次郎どん、覚悟」
と、討手の山口金之進が立ちあがって叫んだ。
「おお、来い」
といったくせに、愛次郎は正座したままである。山口の大刀が、愛次郎の左肩から、胸まで斬りさげた。
愛次郎、なお正座。
山口金之進は、さらに右肩からみぞおちにむかって、ざっ、と斬り割った。
即死。
首領有馬新七は、より豪気であった。この男は、男としてその名誉のために力のつきるまで奮迅しようとした。
大剣を抜き、討手の道島五郎兵衛に斬りかかった。五郎兵衛、数合うけつつ、最後に腰をおとし、上段から、有馬の頭上へ斬りおろした。
有馬は、刀を立て、鍔もとで受けた。
火が、散った。
有馬の刀が、折れたのである。

刀が、鍔から二寸ほど残して折れた。
有馬新七の手に、ツカだけが残った。
(無念。ーー)
と、有馬新七はおもったか。いや、思うひまもあるまい。瞬間、三十七歳の有馬新七は、異様な行動をとった。この異様さは、われわれが当時に生き、特殊な武士道(おとこどう)を七百年にわたって受けついできた薩摩侍の身になってみなければ、わからないであろう。

57 :◆S54RrOzhG77c @\(^o^)/:2016/10/15(土) 15:50:15.21 ID:pKVLQwPE.net
有馬新七は、薩摩人であると同時に、薩摩人とはちがった一面をもっていた。薩摩人の政治感覚は英国人に似ている。観念論よりも、現実をみて、その場その場の方針をきめるたちである。
しかし、有馬新七は、その点では水戸人に似ていた。学者であると同時に、非常な観念論者であった。現実との妥協をうけつけなかった。尊皇攘夷主義という、思想だけが、有馬のすべてであった。が、それだけではない。
有馬。
これは、奇男子であった。
ーー天使様の世が来れば、なにもかもよくなる。
と信じきっていた。当時の尊皇武士のたれもがそう思っていたが、有馬にとっては、事の成否を問わず、その主義のために死ぬのが、かれの「宗教」であった。その激情、
「薩摩の高山彦九郎」
といわれたほどである。薩摩侍のはげしい血気とこの男の独特な「宗教」が、異様な行動をとらせた。
有馬は刀を投げすてるや、すばやく相手の道島五郎兵衛の手もとに飛びこみ、力まかせに道島を壁におさえつけた。
しかも叫んだ。
「橋口、橋口、橋口」
橋口吉之丞は、暴発組の同志だ。
「俺(オイ)ごと刺せ、オイごと刺せ」
有馬のくそ力で壁に押しつけられている道島も、いまは討手とはいえ、親友であり、同志である。しかし有馬、容赦しない。武士の死は、一人でも敵を殺して最期をかざるのが薩摩武士の「教養」であると信じていた。
「心得もした」
橋口吉之丞、二十歳。この男も、薩摩人なのだ。刀をきらめかせ、
「有馬どん、道島どん、ご無礼」
とばかり、有馬の背を突きとおし、そのまま団子でも串で刺すように道島五郎兵衛の胸を刺し通し、壁へずぶりと縫いこんだ。
暴発組はすでに首領有馬が死し、さらには乱闘中二階から降りてきた連中をふくめ、柴山愛次郎、橋口壮助、橋口伝蔵、弟子丸竜介、西田直次郎といった者たちが、相前後して即死した。
このうち橋口壮助二十二歳は、瀕死の重傷を負ってころがりながら、
「水、水」
と叫んでいた。討手の大将株奈良原喜八郎が、これをあわれみ、水を与えてやると、橋口ひすこしも、斬った側の奈良原を恨まず、
「俺共(おいどん)な、死にもしても、お手前(おはん)らが居もす。生きて生きぬいて、今後の天下のことは頼ンもすぞ」と、目を閉じた。まだ、夜は暗い。が、維新の陽は、やがてこういう連中の累々たる屍のむこうに、登るのであろう。

58 :◆S54RrOzhG77c @\(^o^)/:2016/10/15(土) 15:50:36.47 ID:pKVLQwPE.net
階上の連中。
(何やら、ばかに階下が騒がしいのう)
と思って雑談していたが、まさかこういう乱闘さわぎがはじまっているとは、気づかない。
「俺(おい)が見てくる)
と、薩摩の柴山竜五郎が、二階の降り口から階下をのぞき、仰天した。
「いかん。奉行所の捕手(とって)がきたぞ」
すわ!と一同、刀、槍をにぎって立ちあがったとき、階下の奈良原喜八郎、階段のあがり口から上を見ながら、
「わしじゃ、奈良原じゃ。薩摩藩士にいう。みなきいてくれ。久光公は、おぬしらの気持ちはようご存じじゃ。シタガ、ココハシバラク待テ、とおおせある。君命に従うてくれ」
討手の大将奈良原、これは男であった。両刀をガラリと投げすて、着物、襦袢を肩ぬぎして上半身赤裸になり、叫びながら階上にのぼって行った。
「このとおり、このとおり」
両手を大きくあげながら、二階の座敷にあがった。
みな、白刃を持って構えていたが、奈良原喜八郎の狂態をみて、ぼう然とした。
奈良原は、ぴたっ、とすわった。
しかも両掌(りょうて)を合わせ、
「頼む、頼む」
といいながら、口早に階下での事情を話し、やがでじゅんじゅんと事理を説き、思いとどまってくれるように頼んだ。
「いかんと言や、俺(おい)を斬って行ってくれ。おはんらを制止しに来るとき、命は無かもんじゃ、と思うてきた」
両眼から涙をはじき流しながら説いたから、暴発組の薩摩藩士らも、浪士団も、ひとまず鎮まることにした。
ーーあれには勝てなんだ。
と、後年大山巌が往事をしのびつつ述懐したという。
竜馬が、この異変の宿「寺田屋」をたずねたのは、その翌日である。

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